そんなの当然、当たり前のことなんだけど───。自ら行動をおこなさなければ、永遠に何も起こらないということに驚愕した。今日と同じ朝が来て、夜になって寝て、起きたら日付が変わる───ただただオートマチックに毎日が消費される。
「なに言ってんだコイツ?」なんて思うかもしれないが、しばしお聞きくださいませ。
自分以外の”誰か”や”何か”から半ば強制的に予定を押し付けられなければ、何も起きない昨日と同じ明日を永遠に繰り返すだけということが特別ではなく身近に(それもすぐそばに)存在するということ。これは1年ほど前に会社を早期退職した人との会話の中で、余りにも時間の流れるスピードが違うという違和感から感じたこと。その違和感を自分にあてはめたとき、自分にもその要素が大いにあるというイメージがリアルにできてしまったという想像力に驚愕───。
「あー、これやろうかな。でも面倒だから明日でいいや」と明日に振り替えた行動は今までいくつあったであろうか?そして振り替えたその行動のうち何割を実行に移したであろうか?過去の自分に問いかけてみる。
人は所詮「面倒くさがり」で、行動せずに済むのなら行動しない動物のようだ。「時間は無限。いつでも出来るから、またでいいや」と脳天気な思考に侵されやすい生き物───。自分の歳や誕生日も忘れ、今日の日付を忘れ、とうぜん曜日も忘れている今、自分自身を不憫に思った。
一般的なオーバー40のオサーンなら、家族のイベントや勤め先、共通の趣味などのコミュニティーなどの集いにおいて、何らかのイベントや催物が計画され、それに足を運ぶことで日々の暮らしにちょっとしたアクセントがついていくわけだが、そんな誘いに背を向けて、人との関わりを絶っているかのような孤立無援な毎日を送っている私など「ダメ人間」の日本代表。センターフォワードで得点王の気分。
毎日のやらなければならないこと、例えば「会社に行く」「ゴミを捨てる」「歯医者に行く」「食事に行く」「研修を受けに行く」などはなんとなく決められたルーチン動作であり、それに迫られているから行動するのであって、迫られなければ「いつでもいいや」と結局何もやらない毎日となっていくのだろうか───。
目前の仕事に手を付けず不必要なデータが大量に出来上がっていくのは、これと同じ原理か───。結論、クリエイターにとって締め切りというものは、毎日を充実させるのに必要な約束事なのだということ。