あの人の教えはこういうことだったんだなぁ〜と感じたこと

社畜リーマンの勤めにおいて”会議に招集される”ということに関して、チョッとした優越感を覚えた時期があったことを思いだした。通常業務から開放され、自身のアイデンティティそのものに価値を見出され、表現することで給与に変わるという感覚───。

これは新入社員と呼ばれ初々しくも憎たらしい若造の時代に感じたこと───。それから20年近くの時間が経過し、会議への参加に魅力も優越感も感じなくなった昨今では、悲しみを味わうための時間と場所として存在することが”会議”ということに気がついた。

ある会議では、ミスの原因追求に始まり、それを誘発した人物の吊し上げに容赦がない。またある会議では、責任のなすり合いに派閥闘争がはじまり、責任はその場で一番の低権力者に落ち着く───。まるでドラマ「水戸黄門」のストーリーをトレースするかのごとくワンパターン───。こんな時間を何十、何百と経験し、将来の見えた40リーマンの脳裏には「これもまた給与の一部───」と割りきった計算。

そんな情熱のかけらもない会議において、唐突に発言を求められることが極稀にある。会議の時間が「どれだけのパーセンテージで給与に反映されるのか!?」を計算しているオサーンの頭に「議題」が記憶されているはずもなく言葉に詰まること屡々…。意見どころか感想すら言えないようでは、会議参加の人選から外れても文句は言えない。しかし、なにもしない会議に参加することで給料がもらえるのは正直ラクチンだ。これに参加できなければ、誰かに監視されながら生産性向上を煽られる時間が課せられるわけだから、是非とも次も、その次も会議の参加連絡が私のThunderbirdに届いて欲しいと願う。

運良く、会議参加のメールが到着すれば「次こそは参加しているフリを貫き通す──」と心に誓うのだが、目の前で話し合っている内容を理解することも記憶しておくことも難しい。ましてや誰かの反論に自分の意見を投げかけるなど不可能極まりない───。どこかの誰かが、イヤホン越しに私の話す内容を教えてくれればいいのに───と、現実逃避がでたらもう終いだ。

などなど、問題の解決方法を考えている夕刻、私の背後に陣を取る新入社員くんに目がとまる。何かを懸命に思い出そうと必死にメモを睨みつけるフレッシュボーイに、「どうしたんだい?」と声をかけると、メモった内容を基に企画書を作成する───とのこと。私にもそんな時代があったよなぁと思い出をたぐり寄せる脳内で「なるほど!」メモを取って、その記載内容を反復し発言すれば会議のピンチもチャンスに変えられるのではないか!と閃く───。

新入社員だった私の教育係(オサーン、現退職)に「記憶は薄れるからメモを取りなさいよ」と指導を受けたことをフラッシュバックのように思い出した。それが今役立つ───。ありがとう当時の教育係さま。私は今ここでアナタの教えを実践します。

次の会議───。発言だけでなく、今ここで繰り広げられている内容すら頭に入ることなく、メモにすらできないという現実を受け止めなければならなかった。教育係のオサーンへ。アナタの教えはもう既に実行できないほどになってしまいました───。

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