納得できる答えが得られるまで続ける…人は見たいモノしか見ないということ

知見がないモノに「出くわす」または「挑戦する」ということは大なり小なり不安が付きまとう。青年期は、やること成すことすべてが無知で、全てが不安であったろうが、若さがそれを乗り越えるパワーの源となっていた。

しかし、40オーバーのオサーンともなるとパワーの源は消えかけの線香花火の光量以下─── 。漠然とした「不安」「ざわめき」「混沌」「暗黒」─── そんな感情に全神経が支配される。そして、それを乗り越える「若さ」「勇気」「金」「権力」「正義」、何も持ち合わせていない自分に気が付き自己嫌悪に陥る。私は何を頼りに歩んでいけばよいのだろうか。マザーテレサ、私にも温かい毛布をください─── 。

だからこそ、知見のある有識者に「相談」「お伺い」を立てるという行動が世のオサーンの定石なのだ。歴史的にも、神を祀り、祈り、お伺いを立ててきた姿は、ここに引き継がれているのだろう。その相談役は「神」から「人」へ、「人」から「インターネット」と移ってきた。知らないこと、解らないことは、時間とお金、誠意をかけずともGoogleにキーワードを放り込むだけでいとも簡単に瞬間的に表示される。道案内、イベント案内、健康管理、料理レシピ、裏情報など、人が要求するあらゆる情報が瞬時に表示されるインターネットという文明の利器は、既に現代社会においてなくてはならないものとなっている。

しかし、そんな便利なインターネットでも、その情報の出所に注意が必要と私は改めて警笛を鳴らす。何をいまさらと笑うなかれ、追い詰められた人の心理状態にとって出所不確かな情報といえども鵜呑みにしてしまう人が少なくない。平常時であれば誰もが冷静にことを判断できそうなものであるが、大きな動揺と共に凶器が押し迫っている時などに、藁をもつかむ思いで上記のようなキーワードを検索することで判断鈍化が表面化する。

さまざまな検索結果から乱乱と内容を斜め読みするも、自分の意図せぬ記事からはほんの数秒で離脱。次から次へと、自身が納得する最適な情報を探しに飛び移る。そして、自身の求める情報に辿り着くや否や、その情報があたかも自分のために書かれた可能ようなものと勘違いし、その内容に縋(すが)ることになる。そう、人は見たいものしか見ないのだ。

そこに書かれた内容を、今の自分に向けて発信されたかのように全面的に縋(すが)る。自分の納得する情報─── 見たいものが目の前に合わられた安堵感と、安心感が屈強なまでの信念に変わる。どんなに年齢を重ねても、人の心理的奥底にあるものは、想いもかけぬほどデリケートで繊細で稚拙なのである。

普段は真面目な、誰からも親しまれたアノ人が、あんなことをするなんて───。こんなこと全然不思議なことではない。むしろ当然。当たり前。───。

インターネットの情報源が中二童貞男子から発信されたものであっても、その情報が心のよりどころとなった大人は、盲目的にそのアドバイスに耳を傾け続ける───。苦しくも恋愛相談を知恵袋的サイトに投稿したオサーンカの選んだベストアンサーが、明らかに中二からのコメントっぽくて、偉そうに見解を述べてみたくなった。そんな私の目には、涙が零れ落ちんばかり───。噫無情───。

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