何をそんなに考える?「考え過ぎない」ことの重要性

考え過ぎることは精神衛生上よくないとされ、あまりに度が過ぎると病にまで発展することがある。この病が広く知れ渡り一般に定着しだしたころから「考え過ぎない」スタンスを推奨することが多くなった。

私はそもそも「考え過ぎる」ということを知らない。今日起こったトラブルがなぜ起きたのか?なぜそうなったのか?など考えることをしない私は、常にフラットなスタンスで地に足がついた状態で対応する。故に、多くの人から「デリカシーに欠ける」とか、「どういうつもりだ!」なんて批判されたりするが、そんな指摘すらも「考え過ぎない」ようにしている。

そんなフラットな姿勢を見越し、私に相談を持ち掛ける同類社畜の同僚や後輩が何人かいるが、彼らの相談も常にフラットな姿勢で話を聞いてあげられるのは、他人に誇れる私の能力なのかもしれない。「アドバイスもらえますか?」と最後に言葉を促されても、今まで聞いた内容はすでに右から左に流れ出てしまっていることから、何度も同じ話を聞かなければならないことについては有限な時間を無駄に使っているという気持ちは拭えない。しかし、頭に残っていないのだからしょうがない、ともう一度聞きなおす。

しかし、相手がもう一度話し出した瞬間、私の耳に届くのは「数学の先生が教壇で課題の解説を語る声」のような「人の賑わう流行りの喫茶店のBGM」のようなもの化す───。それ故に、更に何度も同じ話を促す事になるのだが、何度聞いてもその言葉は私の頭に入っては消えていく───。

しかし、それを繰り返すことで、相手はいつの間にか満足そうな顔をして席を立つ。人は「話すことで満足」すると言うが、この心理はどうやら本当のようだ。

さまざまな自己啓発/ビジネス本で解説される問題解決に”鈍感力”を掲げ「見ないふり」「知らんふり」なんてものを解説していたりする。しかし私は、コレに対して「喝!」と声を上げる。今目の前で起きているトラブルを見過ごすことを推奨するこの意見は「考え過ぎない」ことへの導線ではない。

目の前で行われる不正に対し「見ないふり」など勧めてはいけない。烈火のごとくその不正行為を暴き、公正させる正義感と道徳心が必要であり、これは豊かでまっとうな社会を目指す国民としての義務だ。私は声を大にして叫ぶ。

しかし、弱視という身体的能力の低下によって「見えない」ということは起こりうるし、弱脳という知識不足から「知らない」ということも大いにある───。私は立派で正しい意見をこれからも叫び続ける。しかし、身体能力の不足が日に日に増していることもご理解いただきたい。

それでは、私は「何も見えない」「なにも知らない」のでこの場を立ち去らせていただきます───。

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