モノの価値が解らない人が多過ぎて悲しくなった

思い出せないほどの過去にハマった”モノ”や”道具”や”装飾品”などが「押入れ」という空間から現れると、私自身の物持ちの良さに自分でも驚く。余りにも昔に手に入れたものであるが故、当時を懐かしむとともに、時間をさかのぼりホロ苦い思い出が脳裏を包む。

そんな素敵な物体も「引っ越し作業」という現実的な課題を前にすると、確実に妻神の機嫌を損ねる引き金と化す。そうならないためにも自分なりに何らかの理由をこじつけ、それらを死守する活動に打って出るのであるが、彼女を対手にすると全く勝機が見えてこないのは何故なのだろう───。

グーはパーに負け、パーはチョキに負ける、しかしチョキはグーに負ける───。この連鎖は、世の真理をついているように感じる。いつかグーはパーに勝ち、パーがチョキに勝つ時代が来るのだろうか───。否。それは時代と共に変化するものではなさそうだ…故に真理───。単純な遊びに世の真理が詰め込まれていることについて「神秘」を感じるオサーン。───ということは、私は妻神に生涯ひれ伏せる身分か───。まぁ「妻」に「神」を付記している時点で、”パー”の私に対して”チョキ”の妻という図式は将来的にも拭えないのだろうが───。

そんなことから、このほど私のお宝たちは「ヤフオク」というサービスに出品される運びとなった。懐かしのグッズや道具をカメラに収め、その製品の詳細を記載しながらひとつひとつ出品していくこと数時間。(品物の選別から換算すると数日から数週間は時間を使っているかもしれない)自分なりの段階を決め、第一弾として10品程度を出品した。

自分のコレクションと思い出が売られる様は、なんとも言い難い感情が込み上げるが、そこは頑固なオサーン「一度決断したこと曲げはせぬ」───。我ながら凛々しい。フフフ…。

オークションとは本当に面白い仕組みだ。落札者として参加しているだけでは、その面白さの1/10も感じることはできなだろう。出品して感じるその高揚感はなかなかエキセントリックだ。

日に日に迫るオークション終了日と共に少しずつ値動きする価格は、その終了間際には一気に高騰する。この瞬間の感情の高まりは例えがく、これこそが醍醐味だ。

そんなオークションでも悲壮感に蝕まれることがある。それは、私のお宝中のお宝であるアイテムを泣く泣く出品したにもかかわらず、その商品の値がほとんど上がらなかったばかりか「ウォッチ登録(チェックリスト)」すら数件しか表示されなかった管理情報を見たとき───。怒りを通り越し、打ちのめされた脱力感───。

私は、世の「モノの価値」の解らない人たちを軽蔑します。”あだち充作_タッチ「浅倉南ちゃん」の等身大パネル”は最も価値のある商品なのだぞ!

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