「コンビニ人間」を読んで鬱々とした思考が悶々に変わった

第155回 芥川龍之介賞を受賞した作品「コンビニ人間/村田 沙耶香 (著)」を読了した。私の人生の中でも新書で購入した書籍は数少ないが、それは、子供の頃からの活字アレルギーが影響してのこと。

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「右脳派の私としては、ビジュアルで表現されたもののほうが印象的に理解ができ合理的だ」とクリエイター気取りなコントをしているが、実はマンガしか読んでこなかった幼少期の影響が、活字アレルギーの源…。40歳も超えてマンガしか好まないというのは、対人において理知的でないしスマートな印象を与えない。それどころか「こいつバカなんじゃないか?」なんて思われてしまうのは屈辱である。なぜならば、「バカなんじゃないか?」という疑惑は、「大正解!おめでとうございます!100万円獲得で──す!」だからだ。40数年の間、オサーンとなるまで、近しい人以外にはなんとかバレずに過ごせてきたのだから、残りの人生においても悟られずに生きていきたいのです。ハイ

それにしても、この作品(コンビニ人間)はとても読みやすい作品だった。それは、常日頃から「自分とはなんだ!?」などと根暗な思考を鬱々と考えていたことの答えが、作中の主人公として現れたから…。

自分の意見や思考は「変質的」と社会に受け入れられないが、他者の言動をトレースすること(自己をなくすこと)で「普通」と認知してもらえるという事実。他者と同じでいるからこそ、社会で認知されるという真理。

私という個人がここに存在し認知されているのは、私の回りに存在する「認知されている人々」が居てのこと。勤勉で誠実、熱意的で情熱的な私がひとりで立っていても、それを認知してくれている周囲の人々がいなければ、他者に私は、ただのオサーンとしか認識されない。

私という個人は、私を取り囲む周囲の人々の認知で日があたり、影ができ、浮き上がるわけだ。私の周囲の人々が、私という個人を形成してくれているのだろう…と漠然とした考えが、真理であったという事実。

リーマン家業から足を洗うことを真剣に考えたときに芽生える不安の最大たるものは「お金」と思っていたが、それに加え「一人」になることで自分を認知してくれていた周囲の人間が多大に減少してしまう!という不安のほうが大きいと感じた2016年初雪の11月(11月の積雪は54年ぶりだそうですよ)ではでは。。。

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