どうしてマンネリを楽しめないのか?という鬼畜の発想

4月~7月にかけて落ち着くのは、我社の新陳代謝…。いわゆる早期退職者とそれに伴う中途採用者が入り混じるカオスな状態が落ち着くということ。私に限らず多くの社畜が飼い殺されている制作会社において、平穏な日々の月日は短い───。8~9月になれば恒例の新人歓迎会が開催されるのは定番行事。反面、送別会が実行されることは確実にナッシング───。

人が退社するから、代わりの人が入社する───。この図式を何十年と見てきた私も「明日は我が身…」と、脳内シミュレーションは欠かさない。

「フレッシュな仲間を迎え、新たな第一歩を踏み出すつもりで初心にかえり、各自の業務を全うしてもらいたい!」と鼻息荒く語られる激励の言葉は、去年のスピーチを録音したものか?それともその前の───。どちらにせよ音源を再生しているがごとく一字一句違わず、抑揚すらも完コピ状態で聞かされる勤続長期の社畜達の目は、ひとり残らず死んでいる。まさに俎板の上の鯉。イタタ…。

水戸黄門のエンディング「この紋所が目に入らぬか───!」と叫ぶシーン。これががあってこその「水戸黄門」。悪代官の悪行振り、町民たちの悲劇など、このエンディングのためのサイドストーリに他ならない。あって当たり前を「マンネリ」とも呼ぶが、当たり前を当たり前に受け止め、それが「定番」として受け入れられれば、それが無ければ物語が成立しない。ウルトラマンがスペシウム光線を出さなければ、30分もテレビにしがみ付いていた甲斐がないということ───。

さもすると、新人歓迎会の席にて毎回同じことを話す鬼畜上司の言葉を「水戸黄門の紋所」「ウルトラマンのスペシウム光線」と捉えられない社畜の我々が「懐狭シ!」と蔑まれているような気持ちが芽生えてきた───。こんな気持ちが沸き上がるのも社畜の証明か───。(苦笑)

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