人の記憶に残ることは喜ばしくない

社畜は毎朝の通勤時、最寄り駅まではバスを利用する。通勤時間帯は10分に1本の割合でバスが停留所にやってくるので、不便はそれほど感じていないが目前で停留所から発たれるとそれなりに「あーぁ」となる。とはいえ10分待てば…。10分。10分。

ただ待つというだけの10分はどれほど長いのだろう?フッとこんなことを考えた。最近では、多少の待ち時間でもスマホ片手にサイトやアプリを行ったり来た入りしているだけで体感的にはあっという間に時間が過ぎる。「ソレがなかった場合」を今日は体験してみた。

スマホは持っていません的な雰囲気を醸し出し、バスの停留場でただ立つ。携帯している文庫をカバンから取り出し…なんてこともせずただただ立つ。私の後にバスを待つOLさんやリーマンさんが列を成し本やスマホに目を落としすも、列の先頭にたつ私はただ立つのみ。とはいえ、目力強めに一点を凝視しているわけではなく、脱力感満載のノラリクラリーマンを演じ辺りをなんとなく見渡す。(観察眼のある人には「こいつ窓際だな」なんてレッテルを張られているかもしれない)

そんな自分を演じながら、いつものバス停近辺の景色はこんな感じだったのかと一瞬哀愁に浸る。バス停に集まっている人は、同じ地域で暮らしている人たちだろうが全く接点のないことに改めて驚く。いつも同じ顔触れなのかな?それすらわからない。最寄りのコンビニやスーパーも多分一緒なのだろうが全く記憶にない。あぁ、人付き合いの希薄な現在社会にいたっては「ご近所付き合いもこんなもんだなぁ」などと考える。

そんな時、向こう側から記憶に残る人が登場する。なぜこの人だけ記憶にあるのかといえば、私の中で『非常識な輩(やから)』とメモリーされているからだ。髪が薄く眼鏡をかけ疲れたスーツを身にまとったその輩は、過去のバス搭乗時バスの運転手と揉めていた。輩は大声を張り上げバスの運転手に文句を言っていた。運転手は仕事に支障が出てはいけないと、冷静な対処とともに誠実な態度で応対していた。そんな光景を目の当たりにしていたことから、私の中でこの輩は「メガネ悪代官」というあだ名がつけられていた。

そんな一幕が記憶と人を一致させているのだと考えると、人の記憶に残るということは紙一重だと一瞬身震いした。ごく稀に「あ~あの時の○○会に参加されていましたよね覚えています。」なんて言われることがあるから。

そんな時は、焦らず冷静に「私はナニ代官かね?」と胸を張って聞くと良いかもしれない。より記憶に残してもらえるだろう。

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