ラジオから流れる曲を聞いて思ったこと

休日の車移動やトレーニング中のBGMにラジオをよく聞く私であるが、番組中のリクエスト曲コーナーにおいて、お気に入りのアーティストの曲が流れた瞬間、自分でも驚くほどに気分が高揚する経験は多くの人に共感してもらえるのではなかろうか。聞き古した曲であってもラジオから流れるそのメロディは新鮮で初々しくも当時にタイムスリップしたかのような感覚が芽生える。この高揚感から帰宅後改めてそのアーティストの楽曲やCDをネット検索した人は外多数存在するのではないか。

これはまるで、大掃除の途中に思いもよらないところから突然現れた古い写真やビデオ、雑誌(卑猥なものを含め)などを発見した時の気分に近しい。また、久しぶりに故郷に帰省し徐ろに参加した夏祭りで、20年ぶりに同級生(初恋のヒト含め)と遭遇した時の甘酸っぱい面影を垣間見た瞬間にも似た感覚だ。

このような感情は、他のメデイアでは味わうことのできない”ラジオならでは”の感覚ではなかろうか。この独特な感覚は「聴覚」という限られた器官で堪能するメディアだからこそ感じるのだろう。例えばテレビでは「視覚」からも情報をインプとすることができる。それが故にその情報量の多さからあまりに鮮明に当時が再現されてしまうことで個人が感覚的に有している曖昧な記憶が情報に完敗してしまうことで、現実と感情のズレが戸惑いを感じストレートに表面化されないのかもしれない。

もしそうだとしたら、人の記憶は曖昧であり、その人にとって都合の良いように記憶された思い出に限られた情報源でアクセスした場合に限り感情を揺さぶることができるということが言えるかもしれない。

思い返せば私は、戦時中の日本を当時の映像と音声でリアルに再現されるよりも、その出来事を語る誰かの言葉のほうが感情を揺さぶられる。ということは、豊富な情報提供が人の感情に突き刺さるというものではないということになる。

古ぼけた写真が人の心の深いところに浸透したり、コマ数が少ない映像だけの8ミリビデオに感極まることはもはや時代の風物詩となりつつある。すべての思い出はデジタル保存され、ほぼ永久的に劣化することがない。装置も小型化されたことで記録も容易に実行できる現代において、懐かしさに感情を揺さぶることはなくなっていくのだろうか。

未来に残したい情緒的風物詩をラジオから流れる「BARBEE BOYS_C’m’ on Let’s go!」を聴きながら感じた春の日曜日。

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