時に新人クリエイターが社畜リーマンの私を蔑むような威勢と圧力で「より高い品質を求めて制作に取り組んでおります!」と語る。
今の若者にしては大変優秀で頼もしい───なんて思いたいところであるが、納期を2日も過ぎた状態で語られても頭を抱えるほかない。
これでは「品質が云々」「取り組み方が云々」と語る言葉も誰かの引用としか思えない───。
ひとつのことに没頭し、最高のクオリティを求めるのは大変すばらしいことだ。クリエイターだもの、自分の納得する創作物を作りたいと願うのは梅雨空の雨音のごとく当然のこと───。
しかしそれが、ビジネスとして対価を頂戴して取り組んでいる制作とあらば考え方は変わる。何においても時間(納期)という顧客の要望する期日に届けるということが必須。否、必須という言葉ではまだ軽い「死守」だ。
時間という制約に縛られずに、そのもののクオリティに拘れるのは人に認められた芸術家だけが許された行為なのだ───。
人に認められる秀逸の作品は、ひとつに拘り、時間をかけて出来上がるものも有るが、その領域に行き着くまでにどれだけの数を創り上げてきたのか。数えきれない程のモノの中からやっと得ることが出来る唯一のモノ。それが「クオリティ」───。
100の創作物から見出される1つのものと、何百、何万というものから得られた1つのものにどれだけの価値の差が生まれるだろう。「量より質」を云いたがるのは分からなくもないが、「量は質を凌駕する」という言葉の意味を理解することが先。
私事ではあるが、この言葉の裏付ける1つのエピソード。私の勧めるアダ◯ト動画作品に「間違いない!」と太鼓判を押す同士社畜クリエイターは多い。それはやはり私が「量を経験したことにより質を見極めた」ということを理解しているからに他ならない───。