インターネットがあれば学校の先生は不要なのか⁉︎

「英知の極み」であるインターネットが常用となって20年近くが経過しようとしている。当初は取るに足らないツマラナイ情報、もしくは誹謗中傷といったネガティブな情報の集約だったネットだが、今では世のほとんどの疑問や心配事を解決してくれる”万能な情報源”とまで成長した。これはまさに「英知の極み」。

どんなに優秀な科学者や博士、教授をとっても「一つの分野」に限ったことであり、すべての学術に対して満遍なく情報を有しているネットには、どんな有知者も敵わない。学術的な分野だけでなく、日常的な疑問や問題、悩みなど様々なことに対して必ずと言っていいほど解決策が見つかるのだから───。

これらの情報は、ネットに接続できるすべての人の頭脳や知恵が「源」となっているわけだが、人はなぜネットに情報をアップするのだろう。それが有知者のものでなくても、私たちは大変有り難くその情報を受け入れる。(たとえ小・中学生の記述だとしても───)情報をアップしている人たちは「誰かの為になりたい!」と懇願し、見返りを求めず情報を”善意”から提供しているのだろうか?

ブロガーやYouTuber(ユーチューバー)といった人たちは、提供した情報の副産物として収益性を求めている。これらの人たちの行動は理解しやすい。収益を得ることを目的に有益(と思われる)情報を提供するビジネス活動としているからだ。

しかし、知恵袋サイトなどで誰かの悩みに対しての解答情報や問題に対しての解決法などの情報提供に関しては、まったくもって理解ができない。リーマン的な心狭い発想しかできないオサーンだからか!?(この場合リーマンもオサーンも関係ないが、何かに託けたくなるのはアタマが硬いせいか───)とはいえ、こういった情報を提供している人たちは、人類の将来を見据えた「有識者」たるが故の活動と平然と言うのかもしれない。

情報がありその情報が有益と認知されるからこそ、その情報を求めて人が集まるのは自然の流れ───。私が子供の頃は、すべてが疑問だらけで、だれにも教えてもらえなかったことが山ほどあった。解決は求めて得られるものではなく、時間の経過と経験によって解消していった。試しては失敗し、非常識を繰り返しながら常識を学んだ。

そんな情報が少なかった時代の出来事に「トイレの洋式化」問題があったことを思い出した。誰にも教わることがなかったその使い方は、着座スタイルが人によってマチマチだったカオスな瞬間があった。代表的なものが「考える人スタイル」と「乗馬スタイル」。言葉のニュアンスだけでイメージしてもらいたいが、私の周辺だけに密かにあった問題───。

話を戻そう。私が言いたいのは「何事も行動する前にネットで仕入れた情報で満足し、頭でっかちになっていやしないか?」と心配になっているということ。ネットは”英知の集”であるが、まずはネットで検索する前に『行動する』ということが最も重要だということ。何もせず、あたかも知ったようなふりでネットの話ばかりを鵜呑みにするんじゃなくて、行動した結果で自分の感性を信じてトライすべきなんだ!ということ。

これを読んで、もっと話を聞きたいと思う人がいたら連絡ください。こんな記事が書いてあったブログのURLを教えてあげるから───。

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