「ウォシュレット」を常用するようになって3年が経過した。そもそも、世の中に登場してから20数年も経過している洗浄快適装置に、ほんの数年の利用履歴とはなんともお恥ずかしい限りです。ハイ。
なぜこの程度の経験値しかないかと問われれば、その理由は「恐怖」。文化、文明の流通が、先進地域と比べ20年ほど遅れているような土地での暮らしであったのならばしょうがないと割り切れるだろうが、戦後の高度経済成長期からバブル期を突き進み、先進国の仲間入りをした日本国で生まれ、国内人口の30%以上を占めるといわれる関東地方で育った私としては、比較的早い段階で「ウォシュレット」を体験できる環境にあったはず。「お尻だって洗ってほいしい」という時代を風靡したテレビCMも鮮明に記憶しているほど。
にもかかわらず、人生の半分を走り過ぎたここ数年のある時、初めて「恐怖」を克服しウォシュレットを体験したわけで、それまでの恐怖とは、いったいどういったものだったのか─── 。
今となってはその恐怖へのイメージも薄れているが、これから先の人生において、恐怖への記憶が完全になくなってしまう前に、ここに記述し思い出しておく。
記憶に残っている恐怖心といえば、それは圧力高めの液体(水)がアナル目がけて直噴されたときの人体的ダメージに対する恐怖。巷では、快楽と快感を覚える─── とかなんだとか、破廉恥な理由を耳にすることも多いが、私の恐怖はそういった類のものではなく、文字通り「ダメージ」だ。
モノによっては、強固なダイヤモンドをも切断出来るほどの可能性を持つ「水圧」に対する”恐怖”と、「トイレの水」イコール「汚水」といった先入観が煽る”恐怖”。高圧の水が、意識的に頑なに閉ざしているアナルの隙間をかいくぐり、大腸内に侵入してくるイメージ(汗)。そして、その汚染された水は、私の腸内で正しく健やかに養ってきた腸内環境を守るビフィズス菌たちを破壊するイメージ(汗)。
こんな恐怖イメージばかりが先行し、一般成人男性に比べ、確実にお腹の弱い気質を自覚している私としては、頑なに「拒否」を選択してきたわけです。
しかし、それを克服した今─── 私は確実に、人生経験豊かでお尻の綺麗なステキオサーンとしてここに存在しているわけだ。フフフ。───と、誰かにお尻を見せつけたい衝動にかられたオサーンの思考の根源を解説してみた金曜の夕方。