「欲しい」は何故なくならないのだろう

私は欲深い人間だ。食欲。性欲。睡眠欲…。あらゆる欲が私を支配している。そんな中でも私は定期的に「物欲」が最大に高揚する時期がある。あまりにコレが抑えきれないことに自分自身が心配になりそれについて調べてみた。


欲(よく、慾、希: ἐπιθυμητής, 羅: cupio, 英: desire)とは、何かを欲しいと思うこと[1]や、そう感じている状態。欲望、欲求などともいう。人間(ヒト)、動物が、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じる感覚のことである。生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまで含まれる。心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつと考えられている。仏教などでいう「欲」は、概ね生理的(本能的)なレベルのものを指しており、精神にとって心をよくしていくもの、愛情を育てるもの、抑制するべきものとして説かれている。

どうやら宗教的な欲、生理的な欲、心理的な欲など「欲」にも様々な観点が存在しているようだ。

ここで一息つき冷静に自分の「欲」を観察してみると、それは「物欲」ではなく「所有欲」ではないか?と思えてきた。「物欲」とは物を作りだしたり、拾い集めることもその一種といえる。私はホームセンターで丸太を購入し、意のままに彫り神像を造り出したいわけではなく、落ちている石の優雅な形状に魅せられ収集したいわけではない。企業の様々な広報活動の餌食となり特定の“ソレ”が欲しいのだ。“ソレ”を手に入れることで、自分の新たなライフワークとしたいのだ。ということはこれはまさに「物欲」ではなく「所有欲」だ。

“ソレ”を所有することで、自身の新しい一面を開花させたいという「自己発見」の一種。ともするとこれは「所有欲」から更にレベルが一段上がって「自己成長欲」といえる。40オーバーのオサーンになっても、まだまだ成長したいと願うことは素晴らしいことだ。人生は素晴らしい!新しいライフワークを満喫するために“ソレ”を入手して、人生を豊かにしようじゃないか!

…と理論的な問題定義から、心情的に話を展開しても最強のミニマリストである妻の了解を得られることはない。

私は欲深い人間だ。これに懲りず新たなアプローチを考えよう。

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