先日、私の友人から「娘(中二女子)から”スマホが欲しい”と懇願され、どうしようか悩んでいる」との愚痴を聞いた。「中二でスマホなんてとんでもない!」なんていうのは明らかに古い考え方と指摘され、この年代では約半数がスマホを所有しているとのこと。恐るべしITネイティブ世代!
とはいえ、スマホのメリット・デメリットを考えると、それをコントロールできるだけの精神的成熟が未発達の難しい思春期に、それを買い与えるということについてはどうしても賛同しかねる。半数もの親御さんは、ここをどう理解し買い与えているのだろうか?甚だ疑問だ。
「皆もっているから───」確かに皆が持っていたら欲しくなるのは当然で、我が子の要望が風代わりでなかったことに胸を撫で下ろす親の気持ちに同感するも、私が小学3年生のときに同じ理由で懇願しても買ってもらえなかったファミコン(任天堂ファミリーコンピューター)のことを思い出した。
それは、両親が当時の私の日常生活において”悪”と判断したからで、今の時代においてはスマホが当時のファミコンと同じ扱いと見ているのだろう。それにしても、当時のファミコンと、今のスマホではそこに詰め込まれた技術の価値は雲泥の差、天と地ほどの差異があるが、子供にとって”欲しい”という欲求は、「皆がもっているから自分も欲しい…」という今も昔も変わらないことについてなぜか安心した。
時代は変わっても、人が抱く「感情」や「思い」というものは大差のないものだということだ。
そんなことを思う最中、「昔は良かった─── 」「今の若いもんは───」 と嘆くオサーンを発見すると、どうしても哀れみの眼差しで見てしまう。なぜならば、今の技術や時代の流れについて行けないことに対して常套句として先の言葉を嘆いているように見えるからだ。そんな悲しきオサーンの話を聞いてみようと覚悟を決めるも、ものの数秒で懸念していた後悔の念にに押しつぶされそうになる───。
嘆きオサーンのビジネス理論は「営業は足で稼げ!」「私の若い頃は、年間4~5足の靴が擦り切れてダメになったゾ!」などという持論が展開されるのがデフォ───。最近の革靴の靴底に使われているクッション性が高く、耐久性に優れた素材はそう簡単にはダメにならないです。それよりも、歩き回り汗だくになることが「有能」と位置づけられる評価に対し、ストリートビューでターゲットになりそうな地区を調査したほうが効率が良いと判断するほうがどれだけ利口だろう───。
論理的思考が全てではないとは思うが、根性論だけでモノを語られてもライツー。それでも、人の心に訴えかける根性論のパイセンも必要な時代は重々理解しております。ハイ。大塚家具の御家騒動なんかが正にこの対立───。職人の修行で「何年も修行するなんて効率悪いね」と言い放つホリエモンに全面的に賛同できないのも論理ばかりでちょっとね───。
結局、技術が文化が発展しても、人の欲望や感情は今も昔も変わらない。変わったのは、それを”発信する”か”受信する”かというアナタやワタシの立ち位置が変わったのだということ───。