連想ゲームのように矢継ぎ早につながる思考の出処について

私は毎日のように納豆を食べる。毎日食べても全く飽きがこない。抱きしめて一緒にベッドで眠りにつきたいくらい好きだ。でも、抱きしめるとネバネバするから抱きしめない。ネバネバしないようにパックから出さず、程良い加減で抱きしめればネバネバしなくて済むだろう。でも私は寝相が良くないので、朝起きたら絶対ネバネバしているだろうからやっぱり抱きしめない。

先ほど「絶対」というという言葉を使ってしまったが「世の中に絶対なんてないっ!」が口癖の面倒くさい先輩のことを思い出した。この先輩は今どうしているだろう。なんて書いてみたが本当はそんなことはどうでもいい。

面倒くさい人というのはどこに行っても必ずいるらしい。ここで言う面倒くさい人とは簡潔にいうと『中途半端な持論を頑なまでに唱えている人』を指している。中途半端な持論とは全く興味がなくどうでもいいこととか、悟ったようなことを言っていながら導き出されたプロセスがびっくりするほど浅はかな思考だったりそういった類のものだ。また、そんな人に限ってその持論を「真理」と人に押し売りする。

その人は、あと何年経てばそんな恥ずかしい持論を撤回してくれるのだろうか。撤回するということは、その持論に正当性がなくなったことを認めなければならない訳だが、これを達成するためには過去の自分を否定するだけの成長を遂げなければならない。過去の自分を超えるためにはストイックなスタンスが必要だが、ストイック過ぎても目的は達成できない。

「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉があるが、私がこの言葉の意味を芯から理解したのはここ最近のことだ。現代でも語り継がれている”古くから伝わる言葉”というのは、時代を超えて人に気づきを与えてくれる。という事は今の人も昔の人も悩んだり思うことは同じなのかもしれない。

話が長くなったが、面倒くさい先輩の持論をもうひとつ思い出したので紹介する。その持論はヨーグルトやチーズなどを例えに「腐ったものは美味しい」ということを昔の人が何故腐ったものを食したのか?というストーリーを交えて論じていた。

納豆の話から面倒くさい先輩の話に繋がるのは、この持論が知らないうちに私に染みついき承諾している証なのだろうか。

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