常識と非常識が覆されるリアル

パソコンは、こまめに電源を落とすよりもスリープ状態で待機させておいたほうががハード消耗の軽減、電力消費の面からもフトコロに優しく経済的といわれている。しかしながら、この話をどうしても受け入れられないのは私だけか───。

パソコンに限らず全ての電化製品は「電源を入れるときがいちばん電気を食う」ということは理解できる。止まっている物体を動かすとき、はじめに大きな力が必要になるということ(慣性の法則)と同じ理屈のように想像できるからだ。しかし、パソコンを使用していないときでもスリープ状態が良いということには首を傾げる。使わないのに電気がついているなんてどこが経済的なのか───。「使っていない電気は消しましょう」と教育されたのは昭和生まれだけではないはず。

ときに「エアコンはつけっぱなしの方が節約できるらしい」なる記事を読んだ。”条件付き”ではあるがそうらしい。実証した人のブログ記事も多く存在することから間違った情報ではないようだ。ということはパソコン未使用時のスリープ状態での待機もこれと同じ理屈か───。自分の中の常識が非常識であったことに気づかされた瞬間。

「自分の常識が世間の非常識」ということに敏感になりだしたのは最近のことで、知らず知らずに行っている非常識な言動が目に留まるのは「無知」という悲しきバックボーンがダブって見える 。世間的には”大人”の中の”中年”に分類される40オーバーのオサーンだからこそ、非常識な言動に全神経を集中させるわけだが、これを恐れるあまり「何もできない…」のでは本末転倒。「常識なんてクソ食らえ!」なんて息巻いていた20代の自分が懐かしい───。

それにしても世に存在する「常識」は誰が決め、「非常識」は誰に審査されたものなのだろうか───。

非常識を知ることで常識が生まれ、それが世間に認知されたからこそ言葉通りの「常識」となったのだろうが、時代と共にその常識が非常識に変わることも往々にしてある。

現在ファーストフードのショップ店員などにおいて「○○でよろしかっ”た”でしょうか?」という声掛けは非常識扱いとなった。たったいま起きた出来事でさえ失念してしまうオサーンにとって、「よろしかっ”た”でしょうか?」という問いかけは、自分が発言・懇願したことを確認されていると受け止め「自分がお願いしたことをもう忘れたのか?」という疑心が生まれるワケだ。これを長年擦り込まれれば───、

おじいさん:「A子さんや。食事はまだかのう…」
A子:「さっき食べたじゃありませんか」
おじいさん:「そうだったかのう。すまんのう」
A子:「….フッ!」

はリアルということ───。

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