平等を叫ぶ声から不平等を感じた憂鬱

「平等とは」:差別がなく皆一様に等しいこと───を意味する。世の中「平等」を声高に叫び”平等こそが正義”という風潮があるが、果たしてそれは本当に正義なのか、正しい在り方なのか。私は甚だ疑問に思うのです。

「平等なわけないじゃないか」───。人は生まれた環境も、育った環境も違うことから、その価値観は千差万別であり、平等というスタンダードを決定づけることができない───ということ。ある出来事に対して、先陣をきった人たちと、それに追従した人たちで与えられる報酬や恩恵は差異があって当然で、これが平等などという言葉で均されてはなんとも理不尽なことだろうか。しかし先陣たちは、甘んじて平等を受け入れたのは、それにより周囲の人々が幸福となるから…という寛大さ───。

早朝から4時間かけて並んだ催物において、つい10分前に到着した人と「平等」にそのサービスが提供されることについて、時間的な優位や観覧場所的な優位が得られなければ、こんな理不尽なことはないと愛想をつかすことだろう。

幼少期から猛勉強し、良い学校、良い企業に就いた成人の苦労は、その両親・家族まで視野を広げ、その努力を評価せねばならず、それらを全く怠ってきた人たちと「平等」を糧に社会的優位性に差がないとすれば、それはもう平等どころか不平等だ。

毎日を正しく全うに暮らしている国民と、人々の夢や希望、幸福を奪うような行いをしてきた国民とで、全く平等にその人間性を尊び───、なんて、どこかの独裁国家のよう。

私自身、日々の生業の中でよく聞く言葉に「情報化社会において、その情報は全ての人に平等に与えられるべき───」。これに準拠すべく、あらゆる可能性を考慮し、予算を上乗せし、行き渡るであろう様々なメディアに情報を載せることで、この達成を果たすべく対応する。それでも「情報が届いていない!」と叫び罵る輩が居なくなることはない。困ったもんだ ───。

…なんて、極端な意見を投稿したくなった夏前に夏バテ気味のリーマンクリエイターのひとり言。

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